日常が非日常、日々境界上。

~世界を知り自分を知っていく、少しずつでも面白く生きていく記~ 今弱き人へ、届け。

わたくしが生きていくこと自体の一つのプロジェクト(第一稿)

ご支援と仕事のお声かけのお願いです。

 

わたしは、いわゆる社会に求められる能力も、生存する意欲や気力や体力も、この社会に生きるにはとても不足しています。特にお金を稼ぐ能力と意欲がありません。生きていたいとは思わないので、です。毎朝、起きて「あー、すっきり」「今日も頑張ろう」なんて思ったことは記憶になく、目が覚めた時から疲れているのがいつもで、毎日、目が覚めると無理やり身体を起こし動かしている感覚で過ごしています。日常はその程度が大きいか小さいかの違いで、夜は気力がないので朝に浴びているシャワーで、膝に手をつくことがあるかないかが1つのバロメーターになっています。(そんななのでいわゆる社会に合わせて働くことが難しく、障がいの範囲でも多分なく、お金を稼ぐためだけに働くならばそれだけで日々が終わってしまいます。そうまでして生きていたいとは思わないのです。)なので、存在しているだけで仕事になるということをずっと、いつもどこかで見つけようとしていました。長いこと聞くことに関心を持ってきて、数年前のある時出会った「聴くこと」を学ぶクラスの案内文に、「これ、おれのすることだ!」と思いました。後にそれが、場をひらくということの学びにもなっていきます。けれどそれにはお金が必要でした。自らには実感が必要でした。東京での断続的なクラスでは足らず、大阪に毎月通う1年の終わり頃にようやく始まりに立ったように感じ、結果としてもう1年通います。その度に決断をし、持っていたお金を全てそこに投じました。そこにいた人に比べれば学びの密度や質は劣るものだと思いますし、その学びは終わりのないものです。けれどそこから、自らがしていこうとするのはこれだけだと思うに至ります。学んできたのは、ずっと関心を持ってきてはいた「聴く」こと、その先にあった「場をひらく」ことと人と一緒にいること、人がそのままにいられる場というものでした。在るものを生かすということを含め、そこに出自や持つものやこれまでの経験が全て繋がります。

 

周りに目を向ければ、他の人の有り様に悲しみや憤りを抱いたことがあなたにもあるのではないでしょうか。(わたくしは小さい子を目にしてはいつも「こんな人になっちゃダメだよ」と心の中で声をかけていました。それは、わたくしのような人にならないように、わたくしのような人がいないように、ということなのでした。わたしと他人は同じではありません。けれどそのどうにもならなさ、生きていることの違和感、生きるかなしみが、弱くある人に目が向く一つの要素になっているように思います。)ある時に出会った人がいます。彼女はその頃東京のお寺の多い地域に住んでいました。電話で話しているといつも泣きながら言っていた、「泣いたってなにも変わらない」という言葉が今でも残っています。聞くのは暴力や性暴力に遭うこと、見るのは思うように動かない体と気持ちでした。自分自身を動かすために彼女は自分で手に入れた薬剤を調合して薬を作り、外出するときにはいつもそれをキレートレモンの瓶に入れて持ち歩いていました。数年の間会っていて、一緒にいたり手助けしたりしていながら、結局、彼女は意に沿わず別の場所に移り、わたしは共倒れになるのを避けて離れます。それぞれは、あなた自身かもしれないし、あなたの周りにもいるんじゃないでしょうか。いないと思うのは見えていないだけということはありませんか。ニュースになって見聞きすることをここで言おうとは思いません。理不尽を強いられている人、お金や制度や人間関係での思うようにならなさを抱えている人、他の人のために無理をしている人、そのままにいることや穏やかにいることを許されない人が、いると思います。そのやるせなさや、しんどさや、切なさをどうしているでしょうか。

 

そんなわたしたちが、起きていることや自らを引き受けながら、出会った仲間と、どこかにいる仲間と生きていけるよう、世の中を面白がっていけるよう、そうした学びと遊びのある場をひらいていき、場所を設けておきたいと思います。

何かを教えるところの高いお金を出せないことに諦めるのではなく、専門家に頼るのではなく、わたしたちがそれぞれのわたしとしてあれる、そこで場を共にした人と学びあう、一緒に遊ぶ、今のところ12の項目からなる「まなびあいの時間」。構成的でなく、目的的でなく、約束事は必要に応じてしかない場です。なので確かなことのない、けれどきっと面白くなるだろう場だと思います。(具体的にはこの後の投稿で公開します。公開した投稿はこちら。)

物理的に設ける場所は、一つが、東京の芝の家のような、大阪のココルームのような、誰でも何時でも来ていられる平屋と庭、もう一つが、初めからは無理だと言われても、社会的にだったり経済的にだったり次に行くのに困り事を抱えた人とあまり問題を抱えていない人が同居するシェアハウスになる二階屋です。(再度の計画は後日に公表します。)

場をひらくのは、大阪の縁があり共鳴もするココルームというところと帝塚山の古い家で、3ヶ月後には千葉の船橋の自宅で、場所を設けるのは、船橋にあるその自宅をそうしていきます。こんな場や場所、事ができることで、きっと参加した人や関わった人のそれぞれの世界が面白くなると思っています。(この場や場所とであうことを求めている人、であうことで何かしらが変わることのある人がいると信じています。)

 

けれどわたくしの現状をお伝えすると、自らは手持ちに今月の滞在費もなく、自宅は耐震基準を全く満たさない状態で、シェアハウスについては運営する能力を持っていないだろう状態です。

なので、何の信用もないと思いますが、冒頭に記したような人間ですが、3ヶ月間を大阪に滞在できる費用(月5万円)、シェアハウスのできる知恵や技術やお金を賄っていただけませんか。大阪での滞在費はココルームに支払われるので、アートNPOの支援にもなります。

そうして場や場所があるようになること、わたしが生かされていくことは、わたしと同じような人や上に記したようなことを抱える人が、「こんな人でも生きていけてるんだ、それならわたしも生きていけるんじゃないか」と思うことになるんじゃないかと、「わたしは生きていていいんだ」「わたしは生きていけるんだ」と思える世の中に、誰もが稼げなくても生きていけて誰もが稼げる社会になっていく、それらの小さなきっかけになるのではないかと思っています。

 

できなかったらそれまで、それでもしていくことはそれしかありません。
「武士は食わねど高楊枝」ではいたいもの。けれどこうそうするしかなくなりました。ご支援をいただけましたらありがたいです。お願いします。
円坐、影舞、未二観を通奏低音にした、これ自体が一つのプロジェクトだと思っています。
企画について、個人のアカウントによる発信では必要としてくださる人に届かないように思いますが、まずは公開して、一つひとつ場をひらいていきます。
医療とアートを考える会の方々がお招きくださったように、
円坐、影舞、未二観そのものや、それを元にした研修などのお仕事を承ります。
 

あそびのあいだ又はおといへのご支援(口座・キャッシュレス)・仕事のご依頼の宛先

 

(この文章はコミュニティオーガナイジングによるパブリックナラティブの作り方に寄せて書いています)