日常が非日常、日々境界上。

~世界を知り自分を知っていく、少しずつでも面白く生きていく記~ 今弱き人へ、届け。

(200307)

 

今日向けられた言葉への応え

 ぼやっとしている

 言行不一致

 かっこわるい

自分が生きることに必死ではない、必死にはなれない

かっこよくは生きられない

向かい合ったときに真剣になるだけ

そのように生きるしかない

 

頑張った人は確かに偉いでしょう

だからって頑張れない人が否定されるのか?

苦労した人は確かに説得力を持つでしょう

だからって苦労してない人が下に見られるのか?

頑張れる人ばかりではない

自分を律する人

エゴのある行動を批判する嫌う人のエゴはどうなんだ?



 

こうして気にかけられて生きたくはなかった

こちらが気にかけるだけでよかった

けどそれも起こしてること起きていること

わたくしが生きていくこと自体の一つのプロジェクト(第一稿)

ご支援と仕事のお声かけのお願いです。

 

わたしは、いわゆる社会に求められる能力も、生存する意欲や気力や体力も、この社会に生きるにはとても不足しています。特にお金を稼ぐ能力と意欲がありません。生きていたいとは思わないので、です。毎朝、起きて「あー、すっきり」「今日も頑張ろう」なんて思ったことは記憶になく、目が覚めた時から疲れているのがいつもで、毎日、目が覚めると無理やり身体を起こし動かしている感覚で過ごしています。日常はその程度が大きいか小さいかの違いで、夜は気力がないので朝に浴びているシャワーで、膝に手をつくことがあるかないかが1つのバロメーターになっています。(そんななのでいわゆる社会に合わせて働くことが難しく、障がいの範囲でも多分なく、お金を稼ぐためだけに働くならばそれだけで日々が終わってしまいます。そうまでして生きていたいとは思わないのです。)なので、存在しているだけで仕事になるということをずっと、いつもどこかで見つけようとしていました。長いこと聞くことに関心を持ってきて、数年前のある時出会った「聴くこと」を学ぶクラスの案内文に、「これ、おれのすることだ!」と思いました。後にそれが、場をひらくということの学びにもなっていきます。けれどそれにはお金が必要でした。自らには実感が必要でした。東京での断続的なクラスでは足らず、大阪に毎月通う1年の終わり頃にようやく始まりに立ったように感じ、結果としてもう1年通います。その度に決断をし、持っていたお金を全てそこに投じました。そこにいた人に比べれば学びの密度や質は劣るものだと思いますし、その学びは終わりのないものです。けれどそこから、自らがしていこうとするのはこれだけだと思うに至ります。学んできたのは、ずっと関心を持ってきてはいた「聴く」こと、その先にあった「場をひらく」ことと人と一緒にいること、人がそのままにいられる場というものでした。在るものを生かすということを含め、そこに出自や持つものやこれまでの経験が全て繋がります。

 

周りに目を向ければ、他の人の有り様に悲しみや憤りを抱いたことがあなたにもあるのではないでしょうか。(わたくしは小さい子を目にしてはいつも「こんな人になっちゃダメだよ」と心の中で声をかけていました。それは、わたくしのような人にならないように、わたくしのような人がいないように、ということなのでした。わたしと他人は同じではありません。けれどそのどうにもならなさ、生きていることの違和感、生きるかなしみが、弱くある人に目が向く一つの要素になっているように思います。)ある時に出会った人がいます。彼女はその頃東京のお寺の多い地域に住んでいました。電話で話しているといつも泣きながら言っていた、「泣いたってなにも変わらない」という言葉が今でも残っています。聞くのは暴力や性暴力に遭うこと、見るのは思うように動かない体と気持ちでした。自分自身を動かすために彼女は自分で手に入れた薬剤を調合して薬を作り、外出するときにはいつもそれをキレートレモンの瓶に入れて持ち歩いていました。数年の間会っていて、一緒にいたり手助けしたりしていながら、結局、彼女は意に沿わず別の場所に移り、わたしは共倒れになるのを避けて離れます。それぞれは、あなた自身かもしれないし、あなたの周りにもいるんじゃないでしょうか。いないと思うのは見えていないだけということはありませんか。ニュースになって見聞きすることをここで言おうとは思いません。理不尽を強いられている人、お金や制度や人間関係での思うようにならなさを抱えている人、他の人のために無理をしている人、そのままにいることや穏やかにいることを許されない人が、いると思います。そのやるせなさや、しんどさや、切なさをどうしているでしょうか。

 

そんなわたしたちが、起きていることや自らを引き受けながら、出会った仲間と、どこかにいる仲間と生きていけるよう、世の中を面白がっていけるよう、そうした学びと遊びのある場をひらいていき、場所を設けておきたいと思います。

何かを教えるところの高いお金を出せないことに諦めるのではなく、専門家に頼るのではなく、わたしたちがそれぞれのわたしとしてあれる、そこで場を共にした人と学びあう、一緒に遊ぶ、今のところ12の項目からなる「まなびあいの時間」。構成的でなく、目的的でなく、約束事は必要に応じてしかない場です。なので確かなことのない、けれどきっと面白くなるだろう場だと思います。(具体的にはこの後の投稿で公開します。公開した投稿はこちら。)

物理的に設ける場所は、一つが、東京の芝の家のような、大阪のココルームのような、誰でも何時でも来ていられる平屋と庭、もう一つが、初めからは無理だと言われても、社会的にだったり経済的にだったり次に行くのに困り事を抱えた人とあまり問題を抱えていない人が同居するシェアハウスになる二階屋です。(再度の計画は後日に公表します。)

場をひらくのは、大阪の縁があり共鳴もするココルームというところと帝塚山の古い家で、3ヶ月後には千葉の船橋の自宅で、場所を設けるのは、船橋にあるその自宅をそうしていきます。こんな場や場所、事ができることで、きっと参加した人や関わった人のそれぞれの世界が面白くなると思っています。(この場や場所とであうことを求めている人、であうことで何かしらが変わることのある人がいると信じています。)

 

けれどわたくしの現状をお伝えすると、自らは手持ちに今月の滞在費もなく、自宅は耐震基準を全く満たさない状態で、シェアハウスについては運営する能力を持っていないだろう状態です。

なので、何の信用もないと思いますが、冒頭に記したような人間ですが、3ヶ月間を大阪に滞在できる費用(月5万円)、シェアハウスのできる知恵や技術やお金を賄っていただけませんか。大阪での滞在費はココルームに支払われるので、アートNPOの支援にもなります。

そうして場や場所があるようになること、わたしが生かされていくことは、わたしと同じような人や上に記したようなことを抱える人が、「こんな人でも生きていけてるんだ、それならわたしも生きていけるんじゃないか」と思うことになるんじゃないかと、「わたしは生きていていいんだ」「わたしは生きていけるんだ」と思える世の中に、誰もが稼げなくても生きていけて誰もが稼げる社会になっていく、それらの小さなきっかけになるのではないかと思っています。

 

できなかったらそれまで、それでもしていくことはそれしかありません。
「武士は食わねど高楊枝」ではいたいもの。けれどこうそうするしかなくなりました。ご支援をいただけましたらありがたいです。お願いします。
円坐、影舞、未二観を通奏低音にした、これ自体が一つのプロジェクトだと思っています。
企画について、個人のアカウントによる発信では必要としてくださる人に届かないように思いますが、まずは公開して、一つひとつ場をひらいていきます。
医療とアートを考える会の方々がお招きくださったように、
円坐、影舞、未二観そのものや、それを元にした研修などのお仕事を承ります。
 

あそびのあいだ又はおといへのご支援(口座・キャッシュレス)・仕事のご依頼の宛先

 

(この文章はコミュニティオーガナイジングによるパブリックナラティブの作り方に寄せて書いています)

まなびあいの時間

まなびあいの時間

ココルームで 帝塚山の家で キタナラの家で

~わたしがわたしとして、わたしたちで、より自由に生きていくために~




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何かを学びたいとき、現状を変えたいとき、どうしてますか?

現状が変わるということ、現状を変えられる何かを知らないこともあります。知って近づこうとした時、本を手に取ってみたものの、一度体験してみたものの、そのままになってしまうこともあると思います。「○○をするといいよ」とか「○○をするとこういう効果があるよ」とか、そんな言葉もよく目にし耳にします。それにただ乗っかったりそれをただ取り入れたりしてその○○をすることが多くありませんか。調子よくやってる人はそれでいいと思います。けれど、せっかく知ったのに、そうしていると自分ではその扱い方がわからなかったり効果の実感があまりなく上滑りしていたりする感じがありそうに思います。また、それがいいって言ったって、そのままそのようにはできないよ、だから困ってたり進まなかったりするんじゃないか、と思うこともあります。そこで試行錯誤するのが、学ぶということなのでしょう。けれど、です。

あるいは又はそれと共に、必要そうなものや気の向くものを身にしたいけれど、もう少し知るにも学ぶにも、近くには合う人がいない、適当な場がない、手を届かせられない、(いろんな意味で)そんなこともあると思います。

~高いお金を出せば教わるものの確かさを得ることはできそうです。そこに行ける人や行きたい人はそのようにするでしょう。けれど、わたくしはそのようにできない人が行ける、共に学べる、共に学ぶ場をひらいておきたいと思います。普段ではこうした場に接点を持てない人がその機会を持てるように、それを知ることができるようにしたいと思います。一方で、教える人の持つものの質の高さと、学ぶものの質や密度は比例しないように思います。この場がひらかれたとき、わたくしがこれまで学んできたものは全て共有するつもりでいます。けれど、例え何かを持っていたとしても教えるというようなものではなくその場に持ち寄るものの一つだと思っています。教えられるようなことなどなく何の専門家でもなく、他を見れば秀でた能力は何もないことを痛切に感じます。それでも、こうした場をここでひらくのはわたくししかいないようです。~

ここに挙げられたものはわたくしの関心の向いていることです。学びたかったり身にしたかったりで行きたいと思う場があっても手を届かせられないのは自分のことでもあって、同じような人がいるのではと思いました。

それなら。同じような関心を持つ人と、言葉や体験や実践を、一つひとつ確かめていってみる。専門家や経験豊富な人に頼るのではなく先ずは、世にある参考書(音声や映像を含め)や自身の経験など、手の届くものや今ここにあるものから、お互いに知恵や力を貸し借りしたり出し合ったりして、みんなで学びあっていく。見よう見まねでもいい、とにかくやってみる。教科書はいまここに起きていること。そんな場を持ちませんか。

そうしてご一緒してくださる方がいるならば、その方々と道行きを共にし、学び合っていきたいと思います。お金を持っていてここに意義を感じこの場に来てくださる方がおられて、その方がたくさん置いていってくださるならばありがたく頂戴します。ご支援はありがたくお受けし、この場が続くように使わせていただきます。

年齢とか何かの有無とか、出向くも差し向けるも、あらゆること不問です。

いつでも、おたがいさま、です。


掲げるものはこちら。

自らの困りごとを「自分自身で、共に」「研究」する(当事者研究の理念集を読むことから)

非暴力の作法(NVC・My Tree)

呼吸と姿勢

みるきくはなす・会って話す

感覚と気持ち・触れる

はたらくこととお金

人(あるいは物、事、場)との関わり

わたしにとっての生きること

わたしの今とつながる、他者の過去いま未来

書く、文字にする、あらわす時間

そのままに聴くこと

円坐


ワークショップのようなものは世の中にたくさんあります。そのような場は基本的には、教える人や企画している人の伝えたいことに沿ってだったり、ペースやテンポや目標が彼らの基準でだったり、世の中の忙しさに合わせたりして作られているのだと思います。そこに合わせられ学べる人はそちらに行かれるでしょう。他方で、もう少し間があったらもう少し消化できそうなのに、その時間のうちに少し振り返る時間があったら得たものを日常に慣らしやすくなるのに、そんなふうに思うことがあります。ここでは、ゆっくりと、又は時間を設けて、自らの思いや考えと、起きていることと、居合わせた他の人と、向き合ったり会話をしたりして、時には同じ方向を見たり傍らにいたりしながら、今やあとさきを、聴き眼差す時間にしたいと思います。〈わたしの世界〉が変わっていく、新たになっていく、といいな。


場所  ゲストハウスとカフェと庭ココルーム(大阪府大阪市西成区太子2丁目3−3)

時間  14:00~17:00・18:45~21:30

参加費 カフェメニューから注文一つ+お気持ち

    (経済的に厳しい方はそっとでもお申し出ください)

日程


場所  帝塚山の家(大阪府大阪市住吉区帝塚山西1丁目6−2)

時間  14:00~17:00・18:45~21:30

参加費 お気持ち(カンパではありません)

日程  

 

まずは、3月~5月を縁あった大阪で、6月からは千葉県の船橋市に場所を移してひらきます。

大阪での場は、6月からも継続されるよう作っていこうと思います。

 

日曜日よりの使者

一人の民主主義、自治の感覚、羅須地人会(ジョン・ラスキン生誕200年)

 

サイトはこちら

peraichi.com

 

 

このままのページでは以下に。


【自らの困りごとを「自分自身で、共に」「研究」する(当事者研究の理念集を読むことから)】


自分/自分たちの抱える困難や生きづらさを自分/自分たちで「研究」するという取り組み/営みがあります。北海道の浦河町という町で1990年頃に始まりました。

自分の困りごとに名前を付けて、どんなことがどんな時にどのように起きているのかを検討して、同じような経験のある人ない人の居合わせた人からの質問や意見をあれこれ聞きながら、解決したり抱えながらだったり日常に折り合いをつけていく方法を見つけていきます。

それには、時に入れ替わりもしながらできてきた十いくつの理念があります。それらを眺めていると、思い当たる節があったりなかったり、というより濃淡の違いだけで誰にでもあるように思われます。

私たちが日々にこの営みを取り入れるに当たって、まずはこの理念を一つひとつ読み、それについてみんなで会話をしていきたいと思います。当日の時間の後半には、その日に読んだ理念が自分事と距離が近ければ、それを日常に生かすなら、ということを考えます。


こえ 気分と経緯と期待

前半 理念の一つを読んで会話する

後半 その日読んだ理念を自分事にする、又は他者の自分事について話してみる

こえ 今どんな感じ?

振り返り


例)・自分自身で、ともに

  ・弱さの情報公開

  ・「笑い」の力~ユーモアの大切さ


参考書など 当事者研究の理念集 『安心して絶望できる人生』など 

 

月2回


企画タイトル 各理念 

    例) 「自分自身で、ともに」 困りごとを「研究」する 当事者研究の理念から

       「弱さの情報公開」 ってどんなこと? 当事者研究の理念から

       「「笑い」の力~ユーモアの大切さ」 ユーモア、あります? 〃

 


【非暴力の作法】


私たちは他者とコミュニケーションを図るとき、どうしても擦れ違いや衝突を起こしてしまうことがあります。それはなぜでしょうか。異なりとの出会いはチャンスでもありますが、それらを解決するためにこちらの意見を(時に暴力的に)押し通そうとしたり相手に説得を試みたりします。けれど、一方的でないコミュニケーションの方法がどうやら体系立てて作られているようです。また、子どもに暴力を振るってしまう保護者への援助プログラムというものも存在しています。

それらはそれぞれ、NVC(ノンバイオレント=非暴力 コミュニケーション)とMy Treeぺレンツ・プログラムとしてまとめられています。NVCは、何も新しいものではなく人類に培われてきた考え方であり、それらを体系立てた「方法」とされています。欧米的なまとめ方や表現に感じられもしますが、わたしたちの日常での人とのコミュニケーションに生かせるヒント集とも言えると思います。My Treeぺレンツ・プログラムは、一人の女性が様々な実践を重ねて一つのプログラムにしたもので、わたしたちが生きていく上でのさまざまな要素への働きかけが含まれています。ここでは、それぞれを一冊の本や道具を手がかりにして、私たちの日常に生かせるよう読み解いたり練習したりしていきます。


参考書 『NVC』

    『母親の孤独から回復する』


月1回

 


【呼吸と姿勢】


呼吸って、どんなものだと思いますか?一日の中で、姿勢を気にすることはありますか?普段何気なくしている呼吸や取っている姿勢を見直してみるとどんなことが起きるでしょうか。また、焦っている時や自分を見失っている時、呼吸や姿勢はどうなっているでしょうか。そんな時にそれらを手がかりにして自分を少し楽にすることもできるようです。何かをやめてみること、力を抜くこと、全体を使うこと、その人の身体に合った普段しているのとは違う自然な動き、そんなことも見ていけたらよいと思っています。

動画や本を参考に、日常に取り入れられるものを見つけていきます。


参考書 『身体にきく 「体癖」を活かす整体法』『自分にやさしくする整体』


月1回

 

 

【みるきくはなす・会って話す】


私たちが誰かといる時、どんなふうにその人と過ごしているでしょうか。
人と一緒にいて、その人と一緒にいる感じがするとき、しないときがあるように思いませんか。その時、わたしたちは、何を見て、何を聞き、何を話しているでしょう。まなざすこと、きき合うこと、はなし合うことを、丁寧に重ねていくということを試みます。そうしていった時に、先に起こることはどんなことでしょうか。
自由に聞くということをしたときと、「そのままに聴く」ことをしようとしたときと、起こることの違いも見えてきそうです。
することがシンプルなので、ご案内の文章は短いものになっていますが、わたしたちが人の間で生きていくときの基本的なことで、とても大切なこと、大事なことだと思っています。

 

取り入れるかたち リフレクティング

参考書として  『リフレクティング』

関連がより密に思われる項 「そのままに聴くこと」 

 

月1回

 


【感覚と気持ち・触れる】


「自分の気持ちを大事に」とか「自分の気持ちに素直に」とか「相手の気持ちを思いやって」とかっていう言葉を見聞きすることがあると思いますが、自分の気持ちってわかりますか?相手の気持ちはなおさらに。気持ちや感情と自分というものは同じものなのでしょうか、分けられるものなのでしょうか。感情を表す言葉ってそんなに多くないようです。感情や気持ちは何かがあって動きます。何かがあると、気持ちが動く前に、どんなかの感じ、感覚を覚えるようです。感覚を表す言葉は多くあります。感覚は、何かが触れたとき、何かに触れたときに、生じます。逆に言えば、触れていないときには生じないと言えそうです。
大事にするにはそのものを知らないとできないと聞きました。「素直に」はそれを感じ取れる必要がありそうです。

ここでは、言葉や言葉でないもの、物理的な何かに触れるとはどういうことか、触れたときに何が起こるのか、一つ一つ試したり確かめたりしていきたいと思います。


参考にするかもしれない本 『味わう生き方』『触楽入門』『「からだ」と「ことば」のレッスン』


月1回

 


【はたらくこととお金】


わたしはお金を稼ぐことがとても苦手です。お金をいただける価値を他者や社会に提供できないということでもあり、生存していく意欲が乏しいので生活するためのお金を稼ごうと思えないということでもあります。一方で、周りで見聞きすることや人によって、人は誰しも「はたらき」を持っていて、誰もが稼げる社会であることと誰もが稼げなくても生きていける社会であることの両方であってほしいと思っています。人がそのままで持つ「はたらき」とこの経済社会に生きていることとの関係を考えたり、その「はたらき」や無理のし過ぎでない頑張りによってこの社会を生きていけるようにすることを、ここに集った人たちで模索しながら、実験しながら、試みていくための時間です。


参考書 『自分の仕事をつくる』『共感資本社会を生きる』など

参考映画 『人生、ここにあり!』


月1回

 


【人(あるいは物、事、場)との関わり】


人、あるいは物、事、場と関わるとは、濃淡や形が様々でありながらも、相手とほんとうに関わるとはどういうことでしょうか。相手があり、自分があり、その間があります。間に感じるものを距離感と呼ぶのかもしれません。間、あわいがあることを知るとき、相手と自分は分けられるものなのでしょうか。相手がこうだから、相手がこう言ったから、自分はこうなった、こう感じた、又はその逆も、それはほんとうにそうなのでしょうか。相手には、その言葉や動きがあります。それに触れるようにしているでしょうか。わたしたちは、相手と自分の間を、揺れながら、行き来しながら生きていて、その揺れや行き来を関わりというように思います。

この時間はそれらを、時に言葉を用いて、時に言葉を用いずに身体性でもって、見聞きし感じることをしていきます。それによって、もしかしたら、相手との関わり様を感じたり確かめたり、自分の立ち位置や在り方がわかったりするかもしれません。それは、自分を楽にすることになり、自らを知ることの痛みや重さをもたらすことになりながら自分を更新することにもなるのかもしれません。


参考書など その時によって


月1回

 


【わたしにとっての生きること】


抽象的なお題です。けれど、それぞれにとってはとても具体的なことだと思います。好きなことをすることかもしれないし、大事な人と生きていくことかもしれないし、せざるを得ないことをしていくことかもしれないし、困難や悲しみとともに生きることかもしれないし、とにかく笑い飛ばして生きていくことかもしれません。わたしにとっての生きることというのが何なのか、一人で、縁あった人と会話を通じて、見つめ、聞き、探り、見つけていく、そんな時間にしたいと思います。


参考書など その時によって。又は人それぞれかもしれません。


月1回

 


【わたしの今とつながる、他者の過去いま未来】


わたしは現在、月の半分ほどを大阪の釜ヶ崎で過ごしていて、元日雇い労働者などのおじさんから話を聞くことがあります。そうして話を聞くと、自分の生きている世界と自分が地続きになるような感覚、おじさんの話す過去のと、過去のその時から話している今に至るまでの時間と、話をしているおじさんの今と、適する言葉が浮かばないけれど「繋がる」に近い感じ、その時間やしてきたことや存在があっての自分であるという感じを持ちます。振り返れば、それは2年ほど前に亡くなった祖母から話を聞いてきたこともそうだったように思われます。過去は現在にあります。現在は他者と共にあります。他者の未来も現在の私と共にあるのではないでしょうか。おじさんであり、目の前の人であり、他者の話を聞くことで、適当かどうかわかりませんが敢えて「つながる」という言葉を使えば、わたしの今いる世界とつながり、他者とつながり、自らにあるものともつながることになるようです。

釜ヶ崎に住む人の話を聞く、集った人の話を聞く、そのような時間になると思います。


参考書など 人の声


月1回

 


【書く、文字にする、あらわす時間】


わたしは、企画についてはこうしてなんとか言葉と文字にしていながらも、日常の出来事の見聞きや思っていることについて、紙に記したりブログやSNSに書いたりすることがとても苦手で、できていません。言葉を扱うことが苦手で、それを怠ってきた、避けてきたとも言えます。いくつか挙がる理由のうち、時間を設けていないこと、習慣にしていないことがあるように思います。慣れていないから余計に時間がかかります。それは必ずしもしなくてもいいことですが、この先に成そうとしていることがあり、そこに理解や共感をもらうためには、理念やビジョンだけでなく、大事なのは日常であり、その日常を言葉の文字や見える形にしていくことが必要だと思っています。

そして、言葉や他のものあっても見える形にしておくことで、比べることができるようになります。比べるというのは、優劣ではなく、異なり、違いがわかるということです。自分と他者、過去と現在と未来、言葉や表現なるものとならないもの。あらわすことでこぼれ落ちるものもありますが、そうしたこともわかるようになるのでしょう。

それよりもまた、言葉や見えるものにすることで、他者から自分が見えるようになります。見えないこと、わからないということは、他者を関わりづらくします。逆に言えば、その人のことが見えるということは、遠ざかるにしろ近づくにしろ、他者をその人に関わりやすくします。それは自分自身に対しても言えることに思います。残念ながらこの世界は言葉でできていることが大半です。言葉を扱えるようになるということは、この世界で生きやすくなる一つの方法なのではないでしょうか。

言葉にすること、目に見えるものにすること、文字にすること、触れられるものにすること、まずはそのための時間を設けることを、ここでしていこうと思います。


参考書 その時によってご自身に合うもの


週1回

 


【そのままに聴くこと】


谷川俊太郎さんの著書に『聴くと聞こえる』という本があります。聴くとはどういうことでしょうか。そこから聞こえてくるものは、ただ聞いていていることからのものとは違うのでしょうか。自由に居られた、話したいことを話せた、聴いてもらえた感じがする、そういうことがあったとすれば、それはどんな時だったでしょう。
そのままに聴こうとするとは、ここでは、質問せず、理解しようともせず、聴き手の意図を挟まずに、話し手の声や言葉の一言一句を辿ること。話し手は話したいことを話し、黙したいときには黙します。相手の話をそのままに聴くということをしたとき、相手に、自らに、その場にどんなことが起こるでしょう。
そして、それを15分間という時間で区切り、その15分間を正確に書き起こして文字になったものを読んでいくとき、読み手は話し手の景色をともに見ることになります。平板な言葉に聞こえてしまうかもしれませんが、それは、世界の、その人の豊かさに触れることであると思います。
こうした体験が、世界を聴くことに、ひいては、人の行いにも言えて、相手の行いをそのままに見、人と一緒にいるということにもつながると思います。
わたしは、人のことを、聴けなかったとしても少なくとも聴こうとする人が増えれば、世の中の問題とされていることの大半は起こらないのではないかと思っています。
聴くこと、聴こうとすること、その世界を共に歩を進めていってみませんか。

 

参考書など 聴くこと 『聴くことのちから』


月1回

 


【円坐】


目的もお題もなく、時間と場所だけが定まっている、呼びかけに応じて集まった人たちが円になって座るところから始まる場。そこには、呼びかけた人、聴くことと場を開き閉じることを役割とする人がいます。いわゆるワークショップや何かの集まりで言われるようなルールや心がけのようなものはありません。日常の人とのかかわりは本来がそのようなものだと思います。このような場のことを考えれば、意味合いをいろいろと挙げることができるでしょう。けれどそれらを予め言うことはできないだろうと思います。冷たく固まった氷が溶けていくような感覚を覚えることも、もう二度と来たくないと思うことも、あの人とまた会いたいと思うこともあの人とまたと会いたくないと思うこともあるかもしれません。そのような円坐という場での、その場や体験が重ねられたときの、起きること、見えてくるもの、聞こえてくるもの、関わりのありようはどのようなものでしょうか。

起きていることを見ること

視力を上げたい、視界を広げたい

はなされる声を聴くこと

より聞こえてくるように


月1回

 


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https://peraichi.com/landing_pages/view/manabiai-asobinoaida

 

「生活保護から就労へ―まず「自尊感情」の回復を」【朝日新聞社説】

生活保護から就労へ―まず「自尊感情」の回復を」
■北の街での試み
■引き締め策への懸念
■自立への階段つくれ
<a href="http://www.asahi.com/paper/editorial20121022.html#Edit1" target="_blank">http://www.asahi.com/paper/editorial20121022.html#Edit1</a>
誰だったかが言っていた、
「日本では不正受給がどのくらいあり誰がどのようにしているいうような報道しかない、海外では保護が必要な人がどれくらいいてどのような支援が求められるかという報道や議論がなされる。一因には政府当局の発表ばかりを報道しているマスメディアにある。」と。
(思い出した、ジャーナリスト・法政大学社会学部メディア社会学科教授の水島宏明さん)

親となるかもしれない全ての若者に観てほしい!若者の【映画】!

『わたしたちの宣戦布告』
同じフランスの『最強のふたり』も良かったけど、これも色彩や音楽、映像のカットや流れがとても「映画」で、この題材をこのように撮ったことに拍手を贈りたい。色々と細かな描写も厚みを作ってる。
 パートナーとは本音で話せ。
 

以下は備忘録として。
 
共に戦うのだけど、ここでのその相手は、病気そのものや社会や世間ではなく子の病と共にある生活やお互いのすれ違いやそれぞれの葛藤だ。
 
その両親の戦いや献身を、子供の側はどう見てたんだろう。
 
ヘビースモーカー振りに「ちょっと吸い過ぎだろ(元がスモーカーでこのストレスじゃ仕方もない が)」と、人の狼狽振りに「そういうものか?」と思い、 オーバーな驚きっぷりと喜びっぷりにちょっと笑えた。
 
相手がいるから子供ができるんだけども、何かに立ち向かう時、パートナーがいて信じ支え合えることはそれ自体がとても大きな力となる。

 

子供の存在というのは特殊なものだ。二者間ではなく、三者であっても並列ではなく、 二者間にもお互いの直接と子を介した感情がある。

 

息子が検査を受けている間のパーティーで歌と重ねながら見つめ合う場面、二人が夜景を挟んで立っているカット、車の中での歌に二人の顔、 愛なんて知らんけど、息子へのそれと二人の絆。

 

そうした存在にも触れられていたけれど、子を亡くしてしまった場合の二人でも、 それでも強く歩んでいけるようであってほしい。

 
あの間の2年という時に、ケンカし支え合いした月日に思いを至らせる。
受け入れ、パートナーと“なる”ことを若者がしていけるといいな。
 

公開劇場はこちら
 <a href="http://www.uplink.co.jp/sensenfukoku/theater.php" target="_blank">http://www.uplink.co.jp/sensenfukoku/theater.php</a>

 

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【発達障害に関する本】①

 

他人や異質なものに対する理解や許容が進むことを願う。
 
フツウの人やデキる人は、余程自覚的でないと、そういう人達を意識的にではないにしろ周りや社会から排除するようになってしまうと思う。

自分が不出来であったりマイノリティであったり仮装的であれ弱者であったりすると、社会やその中の多くの人はそのようなことに対し無知や無理解だということが多少なりとも実感できる。
 

『発達障害かもしれない 見た目は普通の、ちょっと変わった子』磯部 潮(光文社新書

www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000031518627

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