日常が非日常、日々境界上。

~世界を知り自分を知っていく、少しずつでも面白く生きていく記~ 今弱き人へ、届け。

人を無条件には生かさない社会

(200309)

結局、この社会は人を無条件には生かさない社会なんだと思う。

生きる/自分を生かす気力のない人は生きられない。

ある面では当然のこと、自然の摂理。

個々人の多くは人を助ける余力のない人たち。逆境から這い上がって/立ち上がってきた人は、人は追い詰められないとやらないと言い、守られ支えられ生きられてきた人は、人は安心感があって個性を発揮できると言う。どちらかに偏らざるを得ず、こぼれ落ちる人がいる、あるところの可能性を失う。人間は不完全であることの証左。

言葉の扱える人優位、頑張れる人優位、幸運を得た人優位の社会。当たり前のことなのだけど、だからこそ、その人たちがそうでない人に目を向ける必要がある、と思う。その方が世界は多様で豊かで、面白く、結果として、しなやかさを持ち持続可能性も高く、つまり「自分たちの世界」が続くことになる。

SDGsを声高に言う人のどれだけが、「誰一人取り残さない世界」と言いながら、目の前の人とまともに向き合ってるだろうかと思う。得手不得手はありますけどね、すぐ隣の人の声を聴こうとしてるのかね、目の前の人を見ようとしてるのかね。耳を傾けなければ耳に入らないし、目を向けなければ目に入らない。触れなければ接しなければ、自らには何も起こらない。

個々人の多くは人を助ける余力のない人たちっていうところで、さらに言えば、人と向き合う気は、ない人たち。制度を作り、仕組みを作り、個人の負担を減らした、のか?そうも言えるでしょう。けれど、制度や仕組みによってそうなった(余力も気もなくなった)とも言えるんじゃないか。「189」って、本当に専門家に任せなければならないときもあるでしょう、けれど、気になったら自分で行けよ!直接声をかけろよ、って思う。それを制度や仕組みに任せるから人任せの社会になるんじゃないですか、人が孤立するんじゃないんですか。人は完全じゃないから、元々面倒くさいものなんですよ。けどそれが当たり前で、当たり前であればただそういうものだと思って面倒くさくもならないし当たり前とも思わないですよね。

 

おれが何をしてきたか?それはわたくしを目の前にしてきた人たちが知ってるでしょう。おれはおれがそこにいたことで起きたことを自覚している、全てではないにしても、見え聞こえる限りは。おれにしか聞けない声、聞けなかった声があることを、実の事として知るようになった。その後のことは知らない。けれどその時はあった。要がなければ、縁がなければ、二人の間が、場や事柄との間が続かなくてもいい。要があったときに、縁があったときに、その人と、その場に、いるだけ自らとしてあるだけ。

問題は、この社会では人が余暇や余力ですることをおれは自分の動きの主にしていること。けどですね、「社会」に合わせた仕事じゃ生きられないんですよ。

それで生きられなければ仕方がない。そういうもの。人にもしあるならばその痛みや残念さを残したくはないけれど、残念さはお互いに引き受けざるを得ないもの。

それでも家をなんとかできなかった残念さは残るな。時間の重ねられてきた場所や場の持つものをなくしてしまうという残念さ。