日常が非日常、日々境界上。

~世界を知り自分を知っていく、少しずつでも面白く生きていく記~ 今弱き人へ、届け。

3月1日 賽は投げられた。

 
ボトルに入ったメッセージを世界にそっと投げ入れ、人に手渡していく。
主題は同じ、宛て先の異なる、それぞれに向けた3つの手紙をネット上に公開しました。他の人なら2、3ヶ月でできるだろうことを、ここまで2年近くかかって。

 チキンレースの後半のよう、
事の続く様が形になって、生きる要素の巡りの中にあるようになるか、
ただ生存するにもお金の必要な社会で、立ち行かなくなって消えゆくか。
(FXのチャンスを逃して、残りは1年くらいか。)
その期間を延ばす何かがあることもあるか。

自身の生存を望んでいるわけではないので、それへの支援は丁重にお断りします(ないと思いますが)。
あくまでも、しようとしているその事がなされることが望みなので、それへの協力のあることを欲します。
一緒に生きる一部であるとしてくれるならそれは有り難く受け賜ります。
一緒に歩きたい歩いていきたいと思う人と出会っているのは幸いなるかな。それが叶わずとも。

それでも、用のある人と心地よく話すための喫茶店、場所を同じくするための交通手段、音響が大事な映画を観るためのたまの映画館、くらいは気兼ねなく使えるように、治験の参加でもしようかな。

風なんだなぁと思います。過ぎゆくもの、残さぬもの。その人やその場にとって、弱っていたり困っていたり滞っていたりして他にいない時に共にして、回復したり解けたり流れ始めたりしたら離れる。
生きた証だの痕跡だのを残したいなんて全く思わない。
すでに存在していてこのような行動をしてしまっているので生じざるを得ない感触や痕跡が例え残ったとしても固有性は消えていってほしい。
あってほしいのは、その人がその先も生きていけると意識的無意識的を問わず信じられていること。

アートでも福祉でも、ビジネスでも市民活動でもない。
2年前のある時「性根を叩き直した方がいい」と言われたけれど、叩き直すような性根など元からなく、生存への意欲も熱源もない。
相対した時、場を共にした時の、姿勢や態度があるだけ。
影舞を、踊りを、見た人が知っている。人が私を表す言葉に表れる。

地道に活動し関わりにおいても継続についてもしんどい時を経て且つ成果を出しているその道の先達はたくさん存在している。そうしたものの何もない私が零から始めること。

さいと言えば、差異でもありますね。「差異を生む差異」という言い様を知りました。
何の才もありませんが、円に坐し、影に舞いがはたらき、未だ二つにならぬところを観る(聴く/辿る)、そのようにあろうとはしていくでしょう。
犀の角のことはよく知りません。
賽は采の方が一般的のようで、漢語では骰子で、dice(ダイス)と言えばhideの3枚目のシングル曲で、これまでに最も聴いた上位に入ります。

ここで一句
才なくば 当たりし棒に 采を振る

小事を気にせず 流れる雲の如し
結果としての、純粋、切実、逸脱。

仕事や私事をアピールしている人に興味はなく、純粋や切実を伴うか、そこで見聞きしたことを平家物語や報道写真のようにただ伝えようとするものを残している人には引かれますが、そのどちらもとそれらと接点を持たない人とが繋がるようにするのが役割の1つと捉えています。

その手紙がもしあなたの元に届いたら、開いて次の人に手渡すか気に留めておくかしてもらえるとありがたいです。

エイプリルフールが4月1日の午前中というのは風習の1つ。
『あわいにダンス』『見えないグラデーション』に寄せた紹介と文、一部加筆して後で。