日常が非日常、日々境界上。

~世界を知り自分を知っていく、少しずつでも面白く生きていく記~ 今弱き人へ、届け。

あそびのあひだ   この場をひらく、ひらいておくに当たって

この紙か画面かを開く時、あなたはどんな状況でどんな気持ちや感覚があったでしょうか。
楽しさ、忙しなさ、どきどき、ふぅ、大きな、小さな、いろいろな何か。
わたしたちの多くにはきっと、自由な息をできていないわたしがいて、そうなのだろう気にかかるあの人がいます。

あの人にもあなたにも、いたいようにいられる、声を出せる、何かであらわせる、話さないでもいられる、ひと息つける時間や場所が、少なかったり無かったりするのだと思います。
私たちにそのような“あそび”の時間や場所がもっとあったらいいと思うのです。
そこでは自然な息が今よりできて、のびやかに生きていけるのではないでしょうか。
ここには平屋と庭と二階屋や物や私があるので、それらをその設えの
1つとして使ってもらえたらありがたいです。
あなたやあの人のあそびの場を一緒につくりませんか。

その人がその人であれる、その人として生きられる場がもっとあってほしい。
生きたい人が自ら命を絶ち、多くの人が息苦しくある世界にはしておきたくない。
人も人でないものも、存在するものがそのものとしてあれたら、そのほうが世界は豊かで絶対的に面白いから。
こうでなければできないとするのではなく、あるものを見て、今ここからできることを一緒に試みていきたいと思います。


息ができていない、生きられていない、それは生かされていないということでもあります。
私は、あるものが生きる、生かされる世の中であってほしいと思っています。
いまの社会は、人やあるものの“はたらき”を見い出すことの少ない在り様になっているのではないでしょうか。
人がそのままに持つはたらきを見い出し生かされるようにする。そのはたらきが社会的な仕事にもなる。そうして、その人がその人にとって生きるために必要な要素の巡りの中で生きられるようになる。

はたらきには、自ら気づけることもあれば、自らの持つはたらきに自らは気づけないことも少なくありません。
はたらきとは他者の受ける作用、それによって他者に何かが起きるその人のあり様や動きのことです。だとすれば他者にしかわからないものとも言えるのではないでしょうか。
その意図を持たずにした人の笑顔が他者の気持ちを和ませたとしたら、和ませたという作用はその人が自らは気づけないその人のはたらきです。
他者がそのはたらきに気づいて表すことで、その人や別の他者にもわかるようになります。それがはたらきを生かすということだと思います。

生きるのに必要なもの、その案分は人によって違います。お金が必要な人も、ユーグレナ(藻の一種)さえあればいい人も、人との関わりが必要な人も、森の中にいるだけでいい人もいるでしょう。はたらきが生かされて、その巡りが生きる要素を届けその人を生きていけるようにする。
はたらきを(「強いてさせる」のではなく)生かすことがその人を生かすことになるのだと思います。

まずはわたしたちから、そんな巡りのある世界に近いところからしていきませんか。
気になった人や事があった時、わたしには何もできない、できることがないとも思ってしまいますよね。
そうなのでしょうか。「わたし」だけではなく「わたしたち」だったらどうでしょうか。
助けてもらうばかり、何かをしてほしいと他の人に思うだけ、そうして変わらない日々に、
誰かに何かをしてもらうしかないのではないと思います。

力がないと自らを思い若しくは他者から思われている、又はどちらもである人たちが、
同じ事柄や景色に体を向けた時、自分と同じような他者がいることを知ります。
手を取り合って小さな力を合わせることもできます、別の道でもその存在に自らの動き出す力を得ることもあります。
それは心地のよいことばかりではなく、楽ではないことかもしれません。それでも。
わたしたちはそれぞれが独りだけれど、わたしの世界に誰もいないのではない。
その「わたし」たちは「わたし」の世界を変えていけるはずです。

このように思う私がいて、使える場所や物があるならば、そのようなことのためにこの場所や物や私をひらき、ひらいておきたいと思います。するのは私でなくていいのですが、ここで始める、始まりをつくることは私がするしかありません。ただ
1人からでも始めるしかないのです。
いつか現れるかもしれない仲間を待ちながら、現れなくても他に道はなくその歩を進めるだけです。状況が変わらなければ時の限りは遠くないけれど。
応答はないのが普通だろうし、離れることもあるだろうけれど、それなら「意を外したろ」ってそれを逆手に糧としますか。


大きな苦難や負となる体験があるならそれが糧や原動力になるでしょう。けれど、そうした壮絶さや波瀾万丈の物語がなくたってわたしにある困難さがわたしの理由になります。
理由がわかりやすくなくても名の付くものでなくても、わかられなくても響く、わからなくても聴ける、あちらとこちら鳴りあうでしょう。

私はあなたに声をかけたい。
「あなた」のようなあなたがいなければその必要はありません。
けれど、生活していると、あなたが遠くないところにいると感じます。
アゲてくれるところは世の中に多くあるけれど、沈み凹んだわたしを穏やかな心地に戻してくれるところは多くないように思います。
活動的だったり躍動感ある人は目立つしエネルギーをくれます、けれどだからこそ、付いていけなかったり、より独りを感じてしまったりすることもあります。
そんなわたしたちが出会ったら、ちょっとした楽しさを一緒に作ることはできるかもしれません。
あなたがここに関わるようになって、もしここがあなたにとって特別な場所になったとしてもここがあなたの居られる唯一の場所ではなく、あなたが居られる場所はきっと他にもあり、そのうちにはあなたの居る所があなたの居られる場所になるようになると思っています。

さて、歩き始めましょうか。起き上がるところからでしょうか。
少しの笑いを挟みながら、やわらかく尖りつづけましょ。

 

 


510分ほどのお時間があった時に・・・「すぅ、は~、そして声が聞こえる、」

気にかかる人がいる方へ:いノ巻 
今息をしづらくいる方へ:はノ巻 
福祉的な活動をしている方へ:ろノ巻