ほとんどの場合、人は人の危機を察知することができないのだろうな。
(200312)
ほとんどの人は人の危機を察知することはできないと知る。
「助けて」を言えない人が多くいる、
助けてとは言わない人がいる、
発していても伝わるように言えない人もいる、
発していても伝わらないことも多くあるでしょう、
そして生きることをあきらめる。
人の世はそういうものだ。
自分のことをあきらめたとしても、
そういう人の声を拾い聴くことをあきらめたくはない。
けれど、現実的に無理なこともある。
持てるものを公共に資することも、同じく。
そろそろ潮時だ。
声をかけてくれた人、応じてくれた人にはとても申し訳ないけれど。
生を受ける前から現在までに、可能性をくれた人々に申し訳ないけれど。
あきらめたほうが楽。生きれば他の人の救いになる可能性があるとしても。
今、この社会は人が、能力のない人が生きることは容易くはない。
それがいまの人間社会の有り様だから、その能力がなかったということ、適応力がなかったということ、生きられないのはある意味自然の摂理。
それ以上は言えないこと、それだけの信念というようなもの、気概のないことも自覚している。
承認は要らない、事実を提示しているだけ。
社会のせいに、してるのかなぁ。周りのせいにしちゃうことなのかな。
寛容なお金持ちと出会えてたらなぁ。
日本のみなさんさようなら。
せめて他の人は救われてほしいと思う。
と書いてきたけど、そのつもりはなく話を向けられて会話して、Facebookにだけいたこと、人の多くない公園でただ少し声を大きく発してただけのようなもの、と思った。
少し猶予をもらおう。
そして、もっと知らない人に個別に投げかけよう。投げかけられるだけ、数打てば、というように。「見えない銃を撃ちまくる」ように。
気にしない人を相手にしても的外れ。
それが文明を使うということ。お題目を使うということ。なんだ。